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ロクゼロコラム
ロクゼロ注目!ビジネススキル
ダイバーシティーの一歩、『多数派への安心感を見直す』
2023.01.23
周りと同じでいると安心できるのは、同調行動をとる傾向の強い、私たち日本人によくある思考です。しかし、「皆が同じ」の安心感が正解なのかは、今、この時代に考えなければならない命題です。今回は、「人と違うこと」をキーワードにダイバーシティーについて考えました。
ダイバーシティーとは、定義。
世の中はもの凄いスピードでグローバル化しました。あらゆる場面で唱えられてきた「日本は島国だから」の言い訳、理由付けがそろそろ陳腐化しようとしています。日本企業が海外に現地法人を持つことも、またその逆も今や当たり前で、そうした企業で働く外国籍の人やそのご家族と地域社会で共になることは、特別なことではありません。
法務省の発表によると、令和3年6月現在の在留外国人の人数は約252万人。そのうち54万人が東京に拠点をおいているということです。都内の事務所に通う私も、最寄り駅や電車で、よく外国人の方を見かけます。そういえば弊社が社員研修をお手伝いしている企業から、研修テキストの外国語翻訳の依頼をいただくこともあります。
ダイバーシティーとは多様性という意味です。相違点と訳されることもあり、“違いがあること”そのものを指す言葉です。だから、日本人と外国人が同じ通勤電車で会社に通うこともダイバーシティーですし、クラスメイトに外国籍のお友達がいることもダイバーシティーです。
「ちがっている」ことの尊さ
金子みすゞの詩『私と小鳥と鈴と』の一節は、今この時代に注目をされています。「私が両手をひろげても、お空はちっとも飛べないが」ではじまるこの詩の最後を、金子みすゞは「みんなちがって、みんないい。」と締めくくっています。
小鳥のようには飛べない私、
私のように地べたを走れない小鳥、
美しい音がする“鈴”は、私のように歌を知らない。
「みんなちがって、みんないい」とそれぞれを肯定するこの詩は、実は全編にわたって「できない」ことをうたっています。しかし、できないことや足りないことを、責めるのでも嘲るのでもなく、それが存在の本分であり尊さであると、優しさで解いたのがこの詩なのではないでしょうか。
金子みすゞは明治に生まれ昭和5年に26歳で亡くなっています。当時、まだ家父長制のしきたりが色濃く、女性は従う者とされていました。その女性ならではの視点ゆえに、根拠なく蔑まれること、根拠なく虐げられることの馬鹿々々しさを内包し、小鳥や鈴などといった、生き物、静物、人に対して、偏見のないクリアな認識を持てたのかもしれません。
また、婦人解放運動がじわじわと広がりはじめた時代でもあり、雑誌に詩を投稿していた金子みすゞが、そうした世間の様子をよく知っていたことも想像できます。婦人解放運動は女性が主人公ですが、人に優劣をつける間抜けさに真向から言及した運動でもありました。
「みんなちがって、みんないい」は、約100年前の日本で、他人と違う個性こそが人の本分であると認める、優しい女性がうたった詩であり、令和の時代にも通ずる先進性のある詩なのだと思います。
無意識のマジョリティ感覚
ビジネスパーソンにとってのダイバーシティーとは、自社に採用された人材、つまり自分を含む、後輩、同僚、先輩といった人たちのバックグラウンドや個性の違いが対象です。
このとき、自分を中心に考えを巡らせると、何とも傲慢な図式が出来上がってしまうように思います。つまり、自分と同じではない誰か、自分と同じ考えではない何かを認めようとするダイバーシティーの思考です。
自分とは何者なのでしょうか。
私を含め多くの人が、特段に意識することなく「自分はマジョリティの側にいる」と思っているものです。そして、マジョリティ=多数派なわけですから、それは間違いではないのでしょう。しかし、全てにおいて完全ということはありません。自分の考えのなかに他者と違う思想が混ざっていることも、きっとあるでしょう。
たとえば、会議の場で意見が多数派と少数派に分かれたとき、気が付けば自分が「少数派にいた」ということはないでしょうか。企業は大小様々な意思決定を重ねることで業績を作り上げます。だから、どんな小さな決定事項でも、少数派にいる社員は居心地がよくないはずです。
日頃は、無意識のマジョリティ(多数派)でありながら、時にマイノリティ(少数派)にもなる。会議での多数派と少数派は一例ですが、私たち自身のなかにマジョリティとマイノリティが共存していることは少なくないのです。
マジョリティの自分を出発点に物事を観察して判断することが間違いだとは言いません。その無意識のマジョリティ感覚は恐らく事実であり、その認識でいることで『阿吽の呼吸』でビジネスが成り立っていることもあるからです。
多数派への渇望を見直す
ただ、どうでしょうか。自分が他者と違っていることを認めた時、思考は自由を得ることができるのではないでしょうか。「同じでなくてもよい」 「右へ倣えの必要はない」、そう覚悟を決めると自分自身が放つオリジナリティを獲得することができるのではないでしょうか。
私たち自身が周囲と同じであろうとしているうちは、本当の意味で、他者の違いを認めて受け入れることは難しいはずです。周囲と同化しようとする自分に対峙したら立ち止まり、その思考がダイバーシティーの概念を阻害するのだと認識を改め、その上で行動することで「多数派=正しい」の図式から解放されるのだと思います。
経済のグローバル化だけをとってみても、企業のダイバーシティー推進は必須です。ホンの数秒先の職場に『阿吽の呼吸』で仕事を進められない未来が待っているかもしれません。
つい、陥りがちな多数派への渇望を見直すことで、凸凹のないスタート地点に立てるのだと、私は思います。
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