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どうしても家康。令和時代のリーダーシップ

2023.05.15

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「歴史上の人物を上司にするなら誰?」 この問いに皆さんはどう答えるでしょうか。維新の志士や財閥の祖を思い浮かべますか? しかし、何といっても信長、秀吉、家康は特別に人気があるのではないでしょうか。今回は「泰平の世」を後世に残した徳川家康を通して、リーダーシップについて考えます。

「理想の上司」人気ランキングに思う。

ヒット曲やタレント、好きな動物etc…。私たちは日頃、様々なカテゴリーの「人気ランキング」を目にします。レストランを探すとき、家電製品を購入するとき、比較サイトのランキングを参考にすることがあるのではないでしょうか。

そうした「人気ランキング」の一つに、“上司にするなら誰?”があります。人気タレントや著名人を対象にすることが多いこのランキング、対象を歴史上の人物に限定して回答を募ることも少なくありません。

ちなみに、歴史上の人物限定のランキングで人気が高いのは、織田信長です。理由は、戦の強さや政治力、破天荒さなどが相まった「カリスマ性」を感じるからでしょうか。また、天下統一を目前に、志半ばで命を落としたことも、私たち日本人の感傷を刺激するのかもしれません。

さて、「理想の上司」ランキングの代表格といえば明治安田生命保険のアンケート調査ですが、同社がこの調査発表を始めてから、今年で20年がたつそうです。「著名人が上司だったら誰がよいか」を聞くこのランキングは、テレビ、新聞はもとより、SNSでも引用され、世間の関心の高さがうかがえます。タレント人気ランキングの様相もありますが、「理想の上司」という言葉がパワーワードであることは間違いないでしょう。

上司を著名人とすり替えて考えること、「ランキング」自体がエンターテインメント性を携えていることを考慮しても、同調査が20年も続いているのは特筆すべきことです。そして、20年という時間経過をもって理想の上司像の変遷が明らかになるのも、定点観測として面白味があります。

理想の上司No.1内村光良氏と徳川家康

かつての日本のリーダーはトップダウン型でした。人によって優しかったり、厳しかったり(恐かったり)はありましたが、人事や意思決定などのリーダー特権を駆使して組織を牽引していました。これが良いか、悪いかということではなく、リーダーとはこうしたもの、という認識があったのです。

前述の「理想の上司」ランキングで上位に挙がるのも、北野武さんや星野仙一さんなど、ご自身のアイデアや意見を頑として通す、少々コワモテの方々でした。戦国武将でなぞらえるならば、アイデア満載で絶対的権力者の織田信長といったところでしょうか。

令和5年、明治安田生命保険「理想の上司」ランキングで1位だったのは、タレントの内村光良さん、テレビ局アナウンサーの水卜麻美さんです。お二方とも1位選出の理由は“親しみやすい” “優しい”だったそうです。たしかに、立場や芸歴のわりに、周囲を威圧する態度を見せることはなく、どちらかといえば、後輩の話しに耳を傾けて承認するようなイメージがあります。

これも戦国武将に引き比べるなら、本多正信などをブレーンに置いた徳川家康といえますか。

新入社員が理想とする上司像は、この20年で真逆といってよいほどに変化しました。それは、社会が求めるリーダー像の変化とも捉えることができます。かつてのリーダーシップ行動を令和の現代に行えば、部下がついてこないばかりか、パワーハラスメントと受け取られて、リーダー失格の烙印を押されかねません。

“親しみやすさ” “優しさ”に軸を置いたリーダーシップは、一見、意思決定を曖昧にし、ビジネスのスピードを遅らせるようでいて、メンバーの多様な意見を集め、場合によっては決定権をリーダーに集中させるより、最適解をもってビジネスを効率よく進めることもあるのです。

ご褒美が足りない! で、どうする?

令和時代の新入社員は景気の良い日本を知りません。いえ、日本経済に余裕があり、人生がまるでお花畑だと勘違いできたのは、ほんの一時代のまやかしです。賃金水準にしても、1996年をピークに減り続けています。「非正規労働者の増加が全体の賃金を下げている」というのは尤もな分析ですが、欧米との差が拡がり、アジア各国にも抜かれ、日本が1人負け戦なのは憂うべき状況です。

私たちの働く動機は、まず生活のため、生きるためです。自己実現や生き甲斐、社会貢献といった高次の動機は基本収入があってのこと。賃金に納得があってはじめて所属組織への貢献意識が準備されるといってよいでしょう。

徳川家康は戦乱の世を終わらせ、その後265年間続く江戸幕府の基礎を築きました。ここで思うのは、戦で家臣の生命をかけなくてもよくなった代わりに、分け与える物や領土もそれまでのように増えていかないということです。家名を守り、大きくしていくことが武家の最大のゴールであった時代に、ご褒美のない状況下で、外様大名までをも組み敷いた徳川家康とは、どのようなリーダーだったのでしょうか。

物価が上がり続けるなかで賃金が上がらない令和の時代に、部下のモチベーションや貢献意欲を駆り立てるリーダーシップとは何か、そんな観点で徳川家康を見てみます。

自走する組織を創った徳川家康

究極の縦社会であり、お家第一、「敵」か「味方」の人間関係、事実上、生きるか死ぬかの世の中にいて、家康は少し毛色の変わった頭首だったようです。

酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の4人の武将を徳川四天王と呼びます。

家康は当時の武家の主幹事業である戦において、家臣の意見を取り入れ、戦術から実戦に至るまで任せることのできた人物です。四天王の4人は、戦において家康がもっとも信頼した家臣で、自身の才覚で徳川家に勝利をもたらしました。どこで狼煙が上がるのか見当のつかない乱世にいて、戦場を任せることのできる部下がいること、任せられる度量をもったリーダーがいることが、どれほど有利に働いたかは想像に難くありません。

本来、絶対権力者である頭首・家康が、部下の意見を聴き、戦というプロジェクトを彼らに任せたことは、家臣の心理に大きな影響を与えたのではないでしょうか。自律・主体性の意味から、徳川家の家臣は他家の家臣より一段抜きん出ていたのでは、と思うのです。

また、家康は治世でもブレーンを置いて意見を聴きました。三河一向一揆では敵方にまわった本多正信、京都の豪商であった角倉了以、天台宗の僧侶・天海僧正、朱印船の貿易家・オランダ人のヤン・ヨーステンなど、その顔ぶれは多彩です。

本田正信を除いて家臣ではありませんから、外部顧問といったところでしょうか。地位や立場にこだわることなく、優秀と認めた人材と合議によって施策を検討し決裁していく様は、家康が本質的にボトムアップの組織を受け入れる素養があったことを思わせます。

では、組織ビジョンの点ではどうでしょう。

家康軍の旗印には『厭離穢土欣求浄土』と書かれていました。これは浄土宗の救道で、「信ずれば来世は極楽」という意味があります。桶狭間の戦いに敗れて自害しようとしていた17歳の家康は、寺の僧にこの言葉を教わり、この先は戦のない泰平の世を目指し、その実現を信じて生きることを誓います。

日本全土の武家を統一したその先までイメージする家康のビジョンは、この時すでに国家目標の域に押し上げられていました。勝つだけでなく、国家の在り様を胸に戦に赴く家臣のモチベーションはいかばかりだったでしょうか。信長や秀吉の「天下統一」も明確なビジョンではありますが、お家第一の利己主義からは、まだ抜け出せていないように思います。

組織ビジョンがメンバーの心にどれだけ深く刺さっているかが、メンバーの組織に対する貢献意識の濃度を左右するのは、現在でも同じです。

天下統一を果たしたあと、江戸幕府が265年もの間続いたその基礎は、戦国の折から家康によって受け継がれた、個人の尊重、役割認識、貢献意識、そして、それらを育むリーダーシップスタイルにあるのかもしれません。

令和の時代のリーダーシップ

SDGS、DEI、世界規模のパンデミック。

令和に入り、私たちの働き方・ビジネス環境はますます変化のなかにあります。型にはまったリーダーシップスタイルが通用するわけもなく、それは、最近もてはやされているサーバントリーダーシップなどでも、上手くいかないかもしれません。変化の行き先が見えず、予測不可能性は高まるばかりですが、1つハッキリとしていることは、多様性の時代においては、リーダーシップも同様に多様でなければならないということです。

封建組織のトップにいた徳川家康は、武家の常識にとらわれず、柔軟かつ綿密・計画的に人心を掌握し、室町後期から安土桃山、江戸時代に至るまで、少しずつ自律的な組織をつくっていきました。

何が良くて何が悪いのか、誰に対して効果があり、効果がないのか。令和の時代のリーダーシップは翼を休める場所がなく迷走飛行を続けています。そんな時、明日の給油地ではなく、いつか必ずたどり着くゴールを示すのがリーダーではないでしょうか。

家康が誓い、旗印にして家臣に知らしめた『厭離穢土欣求浄土』のように、現代のリーダーにも旗印が必要です。リーダーの強固なビジョンがあることによって、メンバーは自走することができ、リーダーを目的まで連れていってくれるのです。

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